青銅鏡

私の学生時代の本屋は立ち読み出来ました。買いたい本ははっきりしているのだけど、背表紙を見ながら気になった本を手に取って、惹きこまれてそっちを買って帰る、なんて道草読書が楽しめた時代。

今は街から本屋が消え、図書館も小竹図書館みたいに単館での所蔵が少ないと、WEB予約で区内の他図書館からの取り寄せになるとなると、道草読書が気軽に出来なくなっております。

その代わり、WEB上は有象無象情報散乱、ググれば思いがけない資料に行き当たるようになりました(検索能力、大事

 

本日見つけた「W-Wallet 鏡(かがみ)」「古代の青銅鏡づくり

 

神社にお参りするたび目にする「ご神鏡」がふと頭に浮かんで、そういえば昔は鏡をどのように作っていたのか気に掛かりました。

 

ご神鏡って鏡の姿をしているけれど、どうも周囲の景色の映り込みが見えず、反射率少なそうですよね。鏡と言ってもものの輪郭が分かる程度なのかなと見るたび確認したくなっていたこともあって、昔の鏡の精度も気になったので、作り方を知りたくなったという訳です。


水鏡→石を磨いた平滑面(鏡面→金属を磨いた平滑面(鏡面→ガラスに銀鍍金(めっき)


姿を映す道具は、身の周りにあるものそのものから、加工して平滑面を作る方法から、化学反応を利用する方法へ進化。

 

画期的だったろうと思われるのが、反射率の高い素材を平滑に面加工する鏡の登場だったのかなと思います。「古代の青銅鏡づくり」の画像を見て、ここまで映ったら感動したろうし、特別感があったろうなと妄想。

最近のお客様との雑談で、私のユニフォームSOUSOUのTシャツは背中側に柄が入っているものが多く、「好きな柄を着ているのに、着ている時は自分では見られないのが難点」と笑ったことがありました。

ひとには、自分の姿を見たい欲求が、どこかにあると感じています。自分の存在を確認したり、他者との違いを確認したり、それが原初的な欲求なのではないかなと考えております。

 

鏡が無かった時代は自分の姿がはっきり見えない上に全体を見ることも出来なかったと予想され、自分の象徴は手足だったかもしれないと妄想。社会的に、狩猟や農耕での仕事量が自己肯定の基盤になっていたのではないかと推測。姿かたちよりも、行動と実績が自己肯定感に繋がっていたと仮定したら、働き者に価値が置かれ、量をこなせる人がもてはやされたのではないかなと。

 

鏡に話を戻すと、水で映すには限度があり、金属を磨いた鏡を見た時の驚きと感動は凄かったろうなと思います。

 

学生時代の教科書で青銅鏡を見ても、出土品の錆びた姿ままだし、凄さが今一つ分かりませんでした。大人になって、妄想力が育ち、仕事でモノづくりの知識が増えたら、バーッ!と見えるものが変わった印象。青銅は錆びる前はこんな色、鏡面ならこの程度は映ると思えたら、水鏡からの差の大きさが凄すぎて、当時の人々の驚きの大きさが想像できない・・・そりゃお宝扱いも自然な帰結ですよね。自分の姿を見ることが出来る道具は、貴重だったことでしょう。

 

親兄弟の姿を見て想像していた自分と、違った様子に混乱した方もいたろうな。好ましく感じた人はホッとしたろうか(ナルキッソス

装飾品の進化も、鏡の登場で進んだのではなかろうか。

自分と他者の違いが明確に確認できるようになったら、差を見て悩む人も増えたろうな・・・そういうの書きつけた資料出土してないのかな?

 

妄想がはかどって仕方ない(笑

 

 

こんな調子で、生きている間に何をどのくらい知る事が出来るのだろうか、ほんと時間が足りないわと思った今日この頃。