自分の死に方

昨日の安倍晋三元首相の訃報、悪い予感はしていたので、やっぱりかと悲しくなりました。

昨夜のパート先でも、やはり安倍晋三氏の訃報に衝撃を感じている方、喪失感を感じている方がいて、手を動かしながら少し雑談。どちら様も、誰かに殺されるという事態に驚愕し、亡くなった命を惜しみ悲しんでおりました。メディア露出で顔を知っている程度ですが、やはり生きている人が亡くなるのは悲しい事、という受け止め方で、好き嫌いではない話をしておりました。

 

左界隈からのアンチも多かった方ですが、私は経済政策、外交活動、国防の考え方を好ましく思っていた方なので、こんなことで亡くなるなんて、と悲しかったです。もう一度、総理になる可能性もあった方だけに、凄く残念です。(でも二度の消費税増税は愚策だと思ってる。あれは財務省とそれ以前の政権の遺物だったとしても撤回できなかったのは大黒星と思います)

 

人材不足と揶揄される政界、アンチも多ければシンパも多い安倍晋三氏のような政治家は、人を惹きつける力の強さはピカイチで、その点だけでも稀有な存在感だったと思います。

知人が「亡くなったら美化してる報道多いけど騙されるな」とSNSで投稿していて、急にその方への興味が色褪せ、がっかり感。嫌いなのは自由ですが、亡くなった方にムチ打つような言い草に、その方の品位を見た気分で…

 

私が苦々しく思う政治家が亡くなった時は、これを反面教師として、沈黙を保とうと決意です。


もやもやと考えることは、

自分の身に置き換えて、

『他人の思惑で命の終わりを決められることへの拒否感』

 

三島由紀夫が、

『もし死ぬなら、朝の清々しいひと時、森を散歩中に誰とも分からぬ凶弾に打たれて苦しまず即死したい(かなり意訳』とエッセイで書いていたのを中学の頃に読んだ記憶。

 

私もこの店を始める前、サラリーマンの頃は、そういう死に方は変な執着もなくていいなと思っていたのですが、今は全くそう思えなくなりました。

 

どんな人生だろうが、野垂れ死にしようが、自分で決めて、生きて終わりたい。

 

そんなことを考えながら、本日は静かにお店番。