惰性とさよなら

星占いで、今年の7月中旬頃まで断捨離のタイミングとありました。

昨年は「モノの断捨離」を進めたわたくし。10年来、何か不便だけどまあいいかと過ごしてきたことを改善することが出来まして、まあまあ満足していたので、更に断捨離となると「習慣」の類しか思い浮かびませんで、休業協力中にあれこれ考えてみました。

例えば、飲酒。

味を楽しむという点で好きだし、酔っぱらうのも楽しいが、若い頃に比べると、飲んだ後に体調が悪くなることも増えました。

 

習慣なので、長らく続けてきたからには、その間にたくさんのいい記憶と紐づけがされているので、スパッと止めるところに気持ちが至らないのですが、減らしていくことは今も出来ているので、方向性として無理はなさそうだな…と、そんな感じで自分のお金と時間の使い方を振り返ってみました。

 

楽しさが勝るものは、残す。

惰性なら減らす、無くす。

必要性を感じており、実行頻度が高く、行動自体簡単なので苦痛ナッシング、相応の時間を割いているけれど、その結果が精神の充足感へあまり寄与していないものを洗い出してみたところ、『ニュースなど時事情報の検索と閲覧』が引っ掛かりました。

 

前から薄々感じていたことで、筆者の論説を体系立てて読んで考察できる読書で得られる情報と異なり、時事ネタは有象無象が氾濫しているので、1つのニュースについて10読んで全体像がつかめる時もあれば、50読んでも輪郭しか見えない時もある。


事実以外に憶測飛ばしも多いし、もうそういうのを読み漁って考察するのが楽しいと感じていた時はそれで良かったけれども、コロナ絡みの情報に触れるうちに、自分の現実との乖離を感じて、知る意味がよく分からなくなってきているなと思いました。

 

コロナが怖い病気というのは事実なのでしょう。

よく分からないうちは闇雲に恐れるのも正しいと思いましたが、周り見渡しても感染した人が居ないのが私の世界、現実。

私自身も初期の頃のように何かに触れるたびにアルコール消毒していたのが、外から帰宅したり、飲む食べるタイミングでの消毒のみになりました。マスクは誰かと対面する時以外、徒歩移動の時は外しておりますし、それで罹患せず済んでおります。

 

数が増えたろうがわたくしの現実を表すものではなく、何だかそんな情報を日々検索しては暗い気持ちになっていることが無駄に思えているのに、流通している情報数が多いから、日々目にしちゃうんですよね。それを、意識的にカットしてみました。

当たり前ですがフリータイム増加。

空いた時間は、生産性がなかろうが、やりたいことに使って満足。

最初は、いつものインターフェイス、いつもの顔、いつもの音声が無いことで、少し手持ち無沙汰も感じましたが、慣れてしまった今思うのが、

 

誰かの考えや分析、思いを一方的に聞くのは、疲れるんですよね。

会話なら、エネルギー交換できるから長時間話していてもいいのです。

楽しめますから充足感あります。

でも、文字情報、音声情報、動画、一方通行の情報は、疲れる。

 

今回の断捨離の本質は、疲れることを止める、だったのかもしれません。

自分なりの正解を得られた気がして、満足しております。