相手に言えないあなたへ

先日、あるお客様から聞いた話。

スーパーの量り売りのプチトマト売り場。手に取れる場所に値札がついていないプチトマトが山と積まれている売り場。

近くに立っていた方が、何の気なしにひとつ手に取り食べたのを見かけて、その方は「え~この人なに!?」と驚いたそうです。

そして、その方に注意することも出来ず、もやもやと不快になった挙げ句、「人に罪を犯すようにさせる状態を作る事が悪」だと思ったそうです。

「人に罪を起こさせないよう配慮するべき」と言われて、どこまで他者に気づかいをする必要があるのだろう、キリがないなと私は思いました。

何故なら、子供ならいい/悪いが分からないかもしれないから、犯罪を起こさせないような配慮は必要だと思いますが、大人相手に同じ様に対応するのは違うんじゃなかろうかと感じたのです。

常識というと、時に曖昧ですが、しかしながら「タブーや禁忌の常識」が「共有出来る大人」が集まって社会生活を営んでおり、訴えるの刑罰与えるのということ無しで、多少のことなら穏便に済むように対処しているのが日本の世の中じゃないのかな、と思うのです。

(だから、言語、文化、風習、宗教のカテゴリーでの常識が異なる外国人と共存する事はハードルがあり、特に宗教絡みでの争いは世界中にあるではありませんか。)

 

ところで、この方の不愉快の原因は、誰に向かっているのか。食べた方に向かっているのだったら、その方へ直接ダメですよと言えたら良かったかしらと思います。店の売り方に問題があると思えば、店に意見をすればいい。でも言えないものだから、何かの拍子に思い浮かんで言わずにはおれない話題となったのでしょうか。


日本人って、直接対決は苦手ですよね。
私も躊躇してしまうと思います。自分や相手、周りの命に関わらないことだったら、大概スルーしちゃうと思います。

そして、言えない言葉、言えなかった一言で自分が傷つく人もいるんですよね。わだかまる。

どうしてその場で言えないのかと思う人に向けて、ここからは私なりの回答。

それは「相手が知らない人だから」

または、「それほど深い関係ではないから」

大事な人には、ダメなことは言い方を考えたりして、とにかく伝えます。それは相手を慮るから。大事だから。大事な相手は私の話を聞く耳を持っているから、瞬間こじれても人間関係は続くと信じられるので言えるのです。

そういうことかなと思いました。

私も、若い頃は、人を注意しない→躊躇して出来ない自分の偽善者っぷりに落ち込んだりもしましたが、40越えた頃から、人間そんなに白黒ぱっきり分けて暮らしているじゃないし、どんな時も白を貫くことが、正義で良いことだと思えなくなりました。

人間社会は相手と環境と、外的要因だらけだから、私一人の一義判断が絶対正解と思えず。

博愛主義者なら言えるのかもしれませんね。私は、残念ながら、家族と友人知人がまず大事で、人間愛は溢れんばかりにありますが、その分配条件はかなり偏りがあるのです。だから、「人類は皆兄弟」になれたら、世界の問題は激減すると思う時もあります。

好きな人は好き、嫌いな人もいれば「どうでもいい人」もいます。

 

私はいじめられっ子だったんですが、振り返ると無関心が一番嫌だなと思います。嫌いな人にまで自分の善意を振りまく必要は無いと思うので、せめて無関心を止めて、人様には興味持って接したいなと思うようになりました。

共感できれば共感を伝え、分からないならどうして?と聞くぐらいですけどね。

 

接点の第一歩があれば、そこから互いの話が深まるきっかけになりもするし、挨拶する程度の関係になる、友達になるとか、あるあるです。

 

大それた事は出来ない、しない。

出来ない心の日はやらない。

出来る範囲でやるから辛くもないです。

(気が向いたら、試してみてくださいね。)


そんな感じー(ユッコ・ミラー風