耳に入って来ない時、目が滑る時

相手の話す言葉が、今日はちっとも頭に入って来ないと感じる時があります。同じように、何度読んでも、文字が頭に入って来ない時があります。

 

若い頃は「今日は何だか調子が悪いなぁ」と思ってやり過ごしたり、もっと頑張らなくちゃと無理をしたものですが、おばちゃんになって、これは体のサインなんだと感じるようになりました。

 

私の体は、私のものと思えば、コントロール出来る気がしておりますが、意志の力ではどうにも出来ないことも多々あります。おばちゃんになって、ああそういうことかな~と思うのが、コントロール可能な範囲は顕在意識の部分で、潜在意識の部分は、アンダーコントロールなんでしょうね。

 

肌で感じるというか。

理屈じゃない、本能が反応するというか。言葉に出来ないけれど、これは大丈夫だの、ここは嫌な感じがするから離れたい、などなど、体から教えられることが増えました。

 

多分、若い時から体のサインは同じように出ていたはずなんですよね。

サインをサインとして「感受することが出来る」ようになったは、理屈じゃ説明出来ないことにたくさん出会って、そういうことがあると信じるようになったせいかもしれません。池波正太郎の剣客商売が大好きで、何度も繰り返し読んでいた時に、秋山小兵衛の言葉にならない直感的な部分を「年の功」設定とみなしていて、分かるけど「都合いいな」なんて思っていたものですが、今は「あるある」と実感を伴って理解出来ます。

 

ところで、この「感受する能力」、私の気分や、外的要因が変わると、同じ事でも受け入れられない時も起こります。

なので、「波長が合う」「チャンネルが合う」イメージがありまして、合わないと受信出来ないから分からない、聞いていても耳に入らない、見ているのにスルーしちゃう、そんな感じ。

 

これ、とっても有益な知識だと思うから、ぜひ勉強したいと思って開く本の内容が、全然頭に入って来ないとしたら、それはチャンネルがまだ合わないので時期が悪いのかもしれないな、と積ん読。そのまま、二度と手に取らないなら、その時にはもう必要がなくなったんだなと、処分する。そんな調子でいいのだなと思います。

この理屈を当てはめると、やる気が起きないのは時期じゃない、と何でも放置しちゃいそうですね(笑

やりたいことは、エンジンがなかなかかからないとしても、最後はやり遂げようとしますから、大丈夫。


全方位的に、頑張ってアンテナ張ろうとしなくても、ちゃんと必要な情報はやってくるし、体が「感受」してくれるから、安心していいと、今の私は思います。

 

体のサインを見誤ったり、見過ごさないように、最終的には体が健康的で、心に余裕がないと、「感受能力」も低下しますから、日々どれだけ自分をいたわり、楽しんで暮らせるかが大事だなと、最近強く思うようになりました。

 

で、目前のあることが、どうにも目に滑る、耳に入らないくて、目下苦戦中です。これは私がやりたいことでは無いことながら、仕事ですから「やらなくてはいけない」もので、放置も出来ず、あっぷあっぷ…