私の趣味は、実益兼ねて、洋裁。
中学の頃に家庭科の授業でスカートを縫ってから、下手の横好きで趣味に連ねてきた洋裁。
病気して急に太って以来、ダイエットとリバウンドを繰り返し、若年性の更年期でますます巨大化して今に至る。既製服のデザインは、流行りがハマらないとどれも選べず。大きなサイズは、入るけれどもどこかが緩く、そのだぶつきが太さに変換され。太っているからみっともないのは仕方がない、と諦めるのも屈辱的。
デブなりに、おしゃれはしたいとなれば『やはり作るしかない』という発想に至って、ここ10年は、型紙の本を読んで既存型紙の寸法をカスタマイズしたり、一から型紙を起こしてみたり、段々上手になって外へ着て歩けるものが増えております。
生地は日暮里トマトで見切り品から選んで来る感じ。これは¥100/mで3m買ったから生地代は¥300なり。
思ったよりスケスケな生地なので、縫う時にスルスル逃げて少し苦労しましたが、ミリを追っかけるようなデザインでもないので、大らかにミシン掛け。
袖をラグランスリーブにして、肩のラインをボディラインに沿わせたのが今回のポイント。ギャザーでみぞおちからお腹に掛けてのラインを誤魔化し、首から肩にかけてスッキリさせることで、少しでも痩せて見えたいという願望が詰まったデザイン。
今回「三つ巻押さえ」なるものを導入。
背中側にくるリボンタイの端を三つ折りしてみたんですが、逃げる生地で作るのは難しかった・・・逃げない生地でもコツがいる道具で、まだ、掴めません。
アイロン前の撮影なのでシワやツレが気になりますが、数回洗濯してアイロンも掛ければ、縫い目もだいぶ落ち着いてくれる予定。
仕上げたらすぐ別なブラウスに仕掛かり中。
薄手の綿で、今回は身頃にフリルたくさんつけて仕上げたいなと妄想。
こんなに次々作る必要は無いのですが、ジッとしていると現在お悩み中のことをグルグル考えちゃうもので、作る行為に没頭することで現実逃避。
来月、テナントの更新があるのですが、コロナ明けで空気感が変わってきた気がする一方で、数字は変わらず。このまま本当に続けるのかどうか、正直不安になるもので、悩む訳です。地方の取引先に連休の様子を聞けば「人出は多かったが売上は伸びず」とどちら様も苦戦継続中(切ない現実です
先週テルゾさんに
「何でそんなどうでもいいこと考えるの?(意訳」
「やりたいことあるなら、やるにはどうするか考えなよ(意訳」
と言われて気分上がっていたというのに、現実問題を考えると、気持ちは行きつ戻りつするもの。
先の事でもうひとつの悩みは、これからの品揃えについて。
コロナの間、体力のない個人商店として、何とか維持継続を考えて「定番重視」で、安定的に売れる「消耗品を補充」で生き延びたところがあるのですが、コロナが終わる頃合いなので、そろそろ総入れ替えの勢いで、「刷新が必要」かなと感じております。やるなら大胆にした方がいいという判断が、浮かんで仕方がないのです。
前からコロナはいつか終わると考えてはいたのですが、それが2022年内で終わると予想していたのが外れ、そのままコロナが終わる実感も持てずに来たもので、おや、空気感が変わってきたかな?と感じ始めて慌てている、といったところでしょうか。それで、こっちの方向へ、というのがまだしっくりと心に降りて来ずに、モヤモヤしているところ。
何かに集中しながら、思考を整理・・・と思って服を縫い始めたら、結論に向かって思考するどころか、大きな判断をするのが怖くて、作業没頭で現実逃避をし続けているという。。。。本当に気が小さいな、と思いながら、時間が掛かるなら時間を掛けてぐるぐる考えるしかないな~とも思います。
この調子だと、5月末までこの調子で趣味の洋裁がはかどって仕方ない予感です(苦笑
連休最終日は雨。
結構な雨量、今日は絶対、人類滅亡。見越して持ってきた本を読了するのが目標です。
この雨はきっと「お休みよ、フォーエバー」な人々の気が集まり、風を呼び、雲を呼んだに違いない(妄想
とはいえ、春の雨は、植物には恵み。
疲れた人に、休みを促す癒しの雨。
雨音聞きながら、のんびり過ごせばいいかなと思います。
ああ、でも雨の日は売上が落ちるのつらたん(死語
思い起こすと、若い時は「そういう日もある」と考えることが出来ず、「雨が降らなければよかったのに・・・」と降らなかったら起こったであろう「いい事」に繰り返し思いを馳せたものです。
雨が降らなかったとして、いい事が起こるとも限らないのに、です。
現状が、自分にとって好ましくない、と感じているせい。
現状でなければ、好ましいと思っている、思いたい。願望。
過去に時間は巻き戻らない。
過ぎた時点の可能性をあれこれ考えるのに、時間と労力と心を使うなんてバカな事・・・
今の私は、そういう思考癖を辞められたので、降らなければ良かったのにとは思わなくなりましたが、きっと人類滅亡するだろうから売上ナッシングかも、と良くない未来を想像。
この起こるかどうか不明な未来を想像することも無駄なのに、何をやっているのやら。
最近、近所の洋服メインのセレクトショップ「テルゾ」さんと閉店後に初飲みのさし飲み。テルゾさんは5/20で今の店を閉店すると聞いていたので、一度ゆっくり話をしてみたかったと声を掛けたら「店閉めたら飲み行く?」と誘ってもらいまして、それで実現。いつでも会えそうですけど、場所があるから行き合える関係って絶対あります。商店街の店同士の関係はそれ。だから箱が無くなれば、もう会えない方が当たり前の関係。
私がテルゾさんに聞いてみたかった事は「店を辞めると決めた判断過程」
わたくし、起業する時に、こうなったら廃業すると要件や条件を決めて開業するべきと起業本で読んだので、一応いくつか決めておりました。最初の1年は儲からないもの、と読んでいたので、そんなものかと思いながらも、半年もしたら尋常ではない持ち出し額とスピードに「本当にあと半年で収益が出始めるの??」と不安になりながら、でも1年は様子見だから堪えるべきと見誤り。
持ち出しが痛手になるほど多くなると、辞めたらゼロになると思うから、辞めるのも怖くなる訳です。欲が判断を見誤らせるって本当です。その結果、私は11年目を迎えた訳ですが、あの時辞める判断をしていたら、もしかするともっと心労の無い暮らし向きだったかもしれません(ほらまた、余計なこと考えるw
テルゾさん、想像以上に「今を生きる人」でした。
「何でそんなどうでもいいこと考えるの?(意訳」
「やりたいことあるなら、やるにはどうするか考えなよ(意訳」
話を聞きながら「私、こんな風になりたい」と思えるカッコよさでした。話しにくいことにも答えてもらえて大感謝。コロナ苦境3年間を締めくくる、よい出会いになりました。
ちなみに、テルゾさんとは、また近いうちに会えるようなことになりそうで、また飲みに行けそうで、ホッとしております。
そして昨晩は、大学からの親友で情けないところも隠さず話せる相手に積もった思いを聞いてもらうタイム。問題はちっとも解決してないけれど、抱えている気持ちはだいぶ納まりました。凄いガス抜き完了。「明日からまた元気出して行きましょう!」とスイッチ入れて深夜帰宅(いつもありがとう
今年の連休の思い出は、そんな感じ(とても幸せ
コロナは終わりと実感できる連休、希望持って粛々と日々を頑張ろうと思います。
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駅前のカラオケ館に行ったのですが、結構部屋が空いていて、都心の繁華街は人出が戻っていても、江古田みたいな住宅地はまだまだだなと再確認。この戻りのタイムラグの間に潰れる小規模事業がこの先も増えるだろうなと予想。しかしそれも年内で片が付くだろうなと予想。結果は年末振り返ろう。
翻訳の日本語がとても読みやすい本でした。
映画や漫画で見る、マリー・アントワネットの髪形は、地毛ではありえないと思っていたのですが、その疑問が随分解決された本。
歴史資料を読み、当時のレシピで作り、当時のやり方で1年過ごしてみるという実践込みで書かれた本。
著者自身がやる前に、現代人の感覚で立てた予想がいい意味で裏切らるたび、それを読んだわたくしが「え!そうなの!?」と驚いたり楽しんだり、どこを開いても楽しい本でした。
最初は、やはり造形的に面白い髪形の作り方に釘付け。
私は、当時の装飾的な髪形はかつらなんだろうなと思っていたので、髪形を盛り上げるためのクッションの存在にまず驚きました。
ちなみに、男性はかつら装着だったそうです。女性達にはかつらは不人気だったと書かれていました。かつらをつけた女性というのは、どこか揶揄するニュアンスを含んで描かれる事が多かったようです。何故男女で異なるのか、不思議。
ボリュームが欲しいところに、土台として潜ませるクッション。ヘアピンを挿す時の土台にもなるもの。ボリュームの出しやすさやピンの挿しやすさは形の維持にも関わるので、クッションの充填素材は、身近なものが使われている中でも、良し悪しがあった模様。
当時の髪形は、自力で結い上げることが出来なくもないのですが、一から作るとなると相当時間を使うのが見て取れるので、腕を上げ続けて髪を一人で結うなんて、腕がプルプルと筋肉疲労で痙攣しそうです。手早く美しく仕上げてくれる髪結いは、無くてはならない仕事だったんだなと感じました。
ちょっとお出かけを・・・なんて思ったら、今の女性の何倍も労力掛けて用意しなくちゃいけない訳で、きれいな格好している人は、やはりそれなりの財力が求められる訳で、庶民の方はどうだったんだろうかと気にもなるところですが、庶民の方々も流行を追える方達は同じように髪結いしていた模様。
1780年頃、髪を縮れさせボリューム出してふわっと仕上げるのが流行ったそうで、コテを使ったカールやウェーブの作り方は、パーマ液が無い時に、は現代でも応用できるやり方だなと思い、じっくり写真に見入ってしまいました。
1750~1790年あたりの流行を紹介してあるので、変遷をみるのも楽しいはずです。
いずれの時期も、髪の美しさや衛生のために使われた「ポマード」と「髪粉」の存在が大事なアイテム。当時のレシピを元に、現在入手できる材料に置き換えたりしながら、作り方も紹介されています。頬紅とリップクリームのレシピも載ってました。
現代の化粧品の原材料は、化学物質の名前の羅列で、読めてもどんなものか理解できない印象ですが、ポマードの基材は獣脂、髪粉の基材は小麦でんぷん、と食べられるもの。著者も言及しておりますが、現代の化粧品より肌に優しいかもしれません(笑
ポマードは髪形をかっちり固めるイメージでしたが、油分を補い、しっとりさせる目的。根元から毛先へと、全体に馴染ませる感じ。そこに髪粉。細い髪にまぶすとボリュームを増すし、ドライシャンプーのような役割もあったとか。
ポマードつけて髪を櫛でとかし、髪粉をまぶして櫛でとかし。時間を置くとそれぞれが髪に馴染み、髪形を成型しやすくもなるようです。ガチガチに固めるのではなくて、櫛通りが良い状態をが完成形。
写真では、やはり粉をまぶすと髪色が白く粉っぽい色合いに見え、艶もあまり感じませんで、思い起こすと名画の女性の髪そのもの。後年、自然な髪の艶がもてはやされるようになるのは、この時代の髪粉があったからこそ、新鮮にも見えたろうし新しい美しさにも見えたのかなと思いました。
著者が1年間、ポマードと髪粉&18世紀の髪型を結って生活した結果、髪を頻繁に洗う必要は全く感じず過ごせたそうです。1週間~2週間ごとにポマードと髪粉をつけ直し、毎日櫛けずって落ちていく髪粉と一緒に汚れも落ちる、そんなイメージ。ホームレスのような臭いを消すために香水が発達したのだろうと思っていましたが、そんな臭いは元々しなかったことが判明です。
盛り盛りした髪形は、朝結って、夜ほどいて櫛けずる繰り返し。一度作った髪形は癖が残るので、翌朝作りやすかったとか。
実際やってみた方の体験談が、やはり一番興味深かったです。
それにしても、18世紀の髪形を結うにはせめて肩につくぐらいは長さが必要で、やってみるために伸ばしたくなりました(笑)長い髪の方、ぜひこの本を参考に、やって見てくださいな。
たまに来て会話弾む自炊男性、いつの間にか友達。
糠漬けや今夜のメニューなど、食べ物に関する話題で盛り上がることが多い私達。
その男性が、最近「塊り肉を料理する本」を購入。
著者のYouTubeチャンネルをいつも見ていたそうで、あの調子ならぜひ買って読んでやってみたい!と思ったとか。
その実施+検証報告を、Twitterで数日追っかけてみているうちに、なかなか美味しそうだったので私もやってみることに。
男性とも話したのですが、都会のスーパーは塊り肉が売り場に無い傾向。好きな部位を選ぶというより、そこにある塊でやってみることに。ということで、私の1回目は豚バラ。
下処理は、重量に対して、塩3%、砂糖1.5%をあらかじめ混ぜてから肉に満遍なく刷り込み、ラップして2日放置。
脱水され、熟成もあるのか、肉質ねっとりに変化。
既に話に聞いていたので、悩まず5㎜に切て焼いて試食。
豚の肉のうまみ、脂味の甘さが強くなり、水が抜けてしっかりした噛み応え。
普段豚小間率が高いわたくし。
薄切りの生肉の味わいより、塩豚5mm厚の方が断然肉の美味しさが伝わります。
極薄に切るのは難しそうですが、豚小間程度に切るのは問題もなし。包丁の切れ味と、刃に付く脂を拭きながら切るとよい感じ。
コストパフォーマンス的にも、一回の購入金額は増えたとしても、全体的には安く上がるかなと計算してみて思いました。
なんか、予想外に美味しくて扱いやすいもので、今まで薄切り肉を買っていたのを若干後悔し始めるほどです。
件の男性が美味しそうな焼きそばをSNSにあげていたので、野菜と一緒に炒めて焼きそばにしてみたところ、確かに美味しい。いつになく美味しいのです。後から調味料入れると、表面に味がついていて、バラつきも出る。焼きそばの場合、具材と麺の味のバラつきが出来の良さにつながると思うのですが、塩豚を使うと肉の塩味は均質で、麺との一体感が上がる気がしました。
塩気はきつめなんですが、1週間かけて少しずつ切り焼いて食べた結果、4日目頃から塩慣れして、しょっぱさはあまり感じなくなります。これはキッチンペーパーで包んで、毎日紙を交換しながら水分コントロールすれば、2週間は持ちそう・・・
持ちそうですが、何だかんだ使って食べ始めたら3~4日でなくなっちゃう(笑)近所のスーパーで売ってるブロック肉はあって600gぐらいだし、毎食自炊でお弁当にも使えばそんなものです。
鶏むね、豚肩と、同じようにやってみて、現在は塩2%/砂糖1.5%が私好み、というところにたどり着きました。3%だとちょっとが塩辛くて、後で醤油や味噌で味付け追加してみたら、味付けに失敗した感が拭えない塩辛さ。。。カスタマイズするのか、このやり方だと○○の時にいいなと使い道を絞るのか、工夫、工夫。
生肉のままだと、鮮度の落ちないうちに、なるべく早く使わなくちゃとどこか急ぐ感覚があったのですが、この前処理すると落ち着いて食材使えるなと思いました。
一度お試しあれ。
花保さんが持ってきたポスター。
見覚えのある紙質、判型、色合い。
これは、江古田ゆうゆうロード名物、ナイトバザールのポスター。
3/25開催のポスターが今頃配られるということは、随分ギリギリに決めたのだろうな、と予想され、当店はコロナでダブルワークで時間が取れないので役員会には参加していないので、裏側を想像するばかり。
奇数月の第三土曜日に開催するこのイベント、143回を6で割ると25年近く続いているイベントです。コロナの3年間、中止続きで、運営側は高齢者しかいないし、もう出来ないのかもなと思っていたイベントですが、いよいよ再開(おめでたい
普段は人類滅亡通りですが、この時ばかりは近隣から1500名ほど集まり通りが混雑する名物イベント。屋台が出るかどうかは不明ながら、撮影会とその他の観覧できるイベントはいくつかご用意あるようですから、皆さん遊びに来てください(手帳にメモるのです!
今回の目玉は、ウルトラマンエックスとウルトラマンジードとの撮影会。うちの商店街のイベントは、子供が楽しめば親も嬉しいをコンセプトに遠出しなくても楽しいひと時を目指してイベント運営してます。
お子様連れでいらっしゃいませ。
もちろん大きなお友達もたくさん来てくださればと思います。
今日は東日本大震災の日。黙祷をと思ったら、えこだの山賊さんが飛び込んできて、どうでもいいような日常の雑談スタート(笑
ひとりで平和な日常を過ごすことも出来ますが、ずっとひとりでは変わりばえもなく、退屈で色の無い平和になってしまいそう。
目の前の山賊さんが、何でもない話を盛りに盛って楽しそうにしゃべる姿は、生きているからこその姿。弾ける生命力的なものを感じ、光に当たるイメージ。
毎年、あの災害で道半ばで突然亡くなった方の無念さを思うのですが、私は関わる人達を大切にしながら、愛のある時間をたくさん過ごして死にたい、だから生きているうちは頑張ろうと思いました。
黙祷は、今夜寝る前にでも、気持ちを鎮めて行おうと思います。
最近、麻雀を自習しております。
高齢者になるまでに「囲碁、将棋、麻雀は覚えておく」という計画をしており、やっと麻雀に手を付け始めました。
概ねざっくりなルールと役が分かったところで、AI麻雀を繰り返しやり続けること2週間。AIの学習方法と一緒で、繰り返して行くうちに法則性を見つけたり、コツが分かってきた気がします。負けるたび、今のはどこで間違えた?と短く振り返りをすることで、だいぶ分かってきたと思います。この状態で本を読むと、意味が分かるので頭にも入りやすく、今回はなかなかいいやり方が出来たなとほくそ笑み。
ここからしばらくは、点数の計算方法を練習して、最後に実際の牌を触りながら配牌など物理を覚えられたらなと思っているところ。商店街仲間に相談すれば、誰か牌を持っている人はいるだろうから、その方にお作法を教えてもらいながら、ゲームが出来たらなと思っているところ。
今ある人脈は、囲碁、将棋、麻雀抜きの人脈。私が教えられるほどルールを把握出来たら、みんなでいつか遊べるようになるのも良し、麻雀を介して新しい人脈と遊ぶのも良し。
定年退職後にやる事がなくて退屈している夫が邪魔で、、、なんて雑談をたくさん聞いてきたので、趣味はいきなり身に付かないと分かっているわたくし。確定申告も終わりすっかり暇なので暇つぶし★
コロナ前ぐらいの忙しさが戻って欲しいのは山々なのですが、SNSを頑張って投稿しようが、何か大きな氷山が塞いでいるような気配で、動かないもので、もう個人がどうこうするレベルは過ぎたなと、運を天に任せて一生懸命に遊んでみている、そんなところ。
すぐに解決できない事を抱えて、しんどい気持ちで生きている人はたくさんいるはず。みんな、それでもそこを越えたり、やり過ごして生きていくしかない。
しんどい気持ちで、渋い顔して生きていく時間より、考えても解決しないなら置いておいて、楽しく過ごす方がいい。10年前は出来なかった「置いておく」が今は出来るようになったな~と思いながら、麻雀。真面目にお店番している風を装いながら麻雀。
地方へIターンした元同僚が上京するというので、会える人で集まり食事会@神楽坂。
近況報告とも言えないような雑談の中で、世間狭い話が飛び出しました。
東京から遠く離れたIターン先。
たまたま参加した小さな集まりで、たまたま小耳に挟んだ単語から元上司の知人と気づき、恐る恐る話し掛けてみたところやっぱりそうで、つい話が盛り上がり、元上司に今度会いたいという伝言もらった、という話。ちなみにその方、アメリカの西海岸方面在住の方で、普通にしてたらIターン先では行き合わない行動圏の方だったとかで、ご縁の不思議と世間の狭さを感じた、という話でした。
そして、共通の知人がいたとして、一時盛り上がるとしても、その後が続くかはまた別で。
私の印象ですが、出会うにしても、互いのレベルや空気感が近いからその後が生まれ、不思議なご縁で出会ったと言ってみたりする訳で、ベクトルの違いや差があると、必然でご縁がつながらない。そこに不思議なんて無いような気がしております。
「こんな人と知り合いです」と言う側は、相手を上か横に見ている方が多い気がいたします。わざわざ言うぐらいだもの、そこには相手に対する尊敬や崇拝や好意があると思うんですよね。逆に、下に見ている人とは、付き合っていい方か様子を見るので、時間を掛けて知り合っていく感じで、一気に距離を縮める軽率さは少な目な印象。
元上司は猛烈な仕事人で、発想と思考力、行動力が素晴らしく、とにかくT社の海外営業部門の界隈では有名人でした。長く仕事をしているせいで、T社内でペーペーだった担当が偉くなっていくのを見ながら、彼らの仕事をこなしては信頼を得ていったのが元上司。下請けのくせに、物申すこともある人。下請けの立場というより、T社なら未来を思えばこうするべきじゃないのか?という発想で仕事をし続けた人だと思います。それが、衝突しながらも最後収まった時に、担当氏やその上司達に感謝され、元上司の意見が採用されようが不採用だろうが、元上司の真剣に触れたT社の方は感謝をする、そんな感じで人脈が広がっていった有名人。
その元上司を知っていると言う人は、きっと元上司と良い仕事の思い出を持っている人で、その元上司につながる目の前の元同僚にも、その欠片があるはずと信じて、気安く話を始めてくれたのではないかなと思うのです。
とはいえ、大人同士ですから、剥げやすいメッキはすぐ分かる。話すうちに、思い出話を楽しんで終わりにするか、相手は考えながら話していた事でしょう。そういう時、目の前の相手が付き合うに値するか、やっぱり最後はそこになるかなと思うのです。
礼儀や気遣いのある話し方、態度、表情。言葉使いに話の組み立て。年齢差もあれば、心地よさの感覚も違いますから、相手に寄せるだけの経験値。共通の知人というきっかけを越えるだけの魅力が、そこにあったという事なんだろうなと思う訳です。
最近まで、世間が狭いという言い方がしっくり来るなと思って使っておりましたが、会うべくして会うようになっているのかもなと変化しております。元同僚は、会わずにいた間に、とても良い時間を過ごしていたのではないかなと思い、いいな、羨ましいやと思った次第。
私そう言えば、元上司の参加する集まりには必ず出たい派だな(笑
まだあそこが心の中のトップなんだなと思って、にやり(大好きな元上司
顔馴染みのお客様からたくさん銀杏をいただきました。
銀杏は好きですが、買うと高いもので、たくさん貰ったのをこれ幸いと、豆ごはん並みに銀杏を入れて米を炊こうと、殻剥きにいそしんだ休日。
専用の道具なんてありませんから、キッチン鋏を利用してヒビを入れ、握力駆使して力仕事。ひと仕事終わっても薄皮剥き。これがなかなかするりといかず。
乱暴にすれば力加減を誤って傷をつけ、どうせ自分しか食べないのだからいいやと思いつつ、落ち着け自分と思い直し、息を殺して薄皮剥き。
1食分に10粒入る計算で、5食分ぐらいだから60粒(計算おかしいが私的には没問題
ああ、この作業を楽しいと思っていない自分がいるな、と思う。
若い時は、『つまらない仕事を楽しくする方法』みたいなコピーライトにひかれて、啓発本よく読んだなと思い出す。
つまらない事の本質はつまらないんだけど、「だけど」「それなのに」やるところに意義がある訳で・・・例えば、銀杏は「美味しい」
皮剥きはつまらないけれど、美味しいにたどり着くには、剥くしかないのである。
①自分がつまらない思いをして剥くか、
②剥いた銀杏を買うか(金で解決)、
③剥くのが好きな人が知人にいて、頼んで剥いてもらうとか、
④苦労して剥いたが多過ぎたという知人が私が銀杏好きなのを思い出してお裾分けくれるか、
何しろ剥く行為をする人と、対価の有無のコンビネーション。
③と④は互いの好みを知り合う程度の付き合いが必要なので、時間も必要経費。銀杏もらっといて②は無い。①しかない。四の五の言わずに剥け、自分。以上。
また、以前神様から降りてきた言葉「虫のように生きる」が思い浮かびます。
自分の代わりにやってくれる人がいないのだから、私がやるしかないのです。
たまの事なので、やり終え、美味しい銀杏ご飯完成。
人生や仕事も、こんな風で、やりたくて楽しいことばかりではないのよのぅ。
銀杏は、剥くだけでいい。
先行き分からない事に時間投資するよりは、うんと気持ちが楽かもですよ。
自分が好き「だった」感覚を思い出す出来事がありました。かなりご無沙汰していた感覚。
思い出した瞬間、今まで自分に足りなかったものに気付いてしまい、今のままで個人商店をやっていると、足りないままかもなと少し心が揺れてしまいました。
HPに寄せられる問合せに、どうやら法人の担当者から、本来ならメーカーへ問合せすべき内容のお問合せがありました。
聞く相手を間違えている点。
質問内容があまりに素人な点。
デザイン事務所と書いてある割に、自分で考えたり調べたりする事もなく、その手間を省くために質問してきているようで、これは手抜きだよねと嫌悪感。
私自身デザイン業界で仕事をしていましたが、扱う素材や作り方、使用工具など工程を理解していないと、企画も図面も作れなかったし、見積もりだって作れなかったけどな~と思いました。
問合せといえば、無料で対応してもらえる。
なんて素敵なカモフラージュ(黒笑
でもな、
この人は、もしかしたらOJTも満足に受けられない社内でもがく新米デザイナー、かもしれない。私の場合は、周りの先輩上司のおかげで、ひとつひとつ出来ることが増え、上手になっていったのだから、私が社会への恩返しのタイミングと思えないかと変換。
この人は、もしかしたら転職したてで、畑違いにチャレンジ中のお父さん、養う家族のために必死な人、かもしれない。私も転職経験者だから、勝手が分かるまでは周りも大変だけど本人が一番大変だもの、と思えないかと変換。
この人は、私と同じように、毎日一生懸命生きている人、かもしれない。
そう思い直して、真面目に返信してみました。
この店を始めて分かったのですが、嫌だな、不快だな、不満だな、理解できないな、等々、ネガティブな感情が湧いた時は、その感情に流されてしまうと受容力が落ちる。いらないと切り捨てる。後には何も残らないどころか、マイナス気分が残る事が多いです。
この「何も残らない」というところがポイント。
イライラする自分を認め、イライラしてるな~と感じつつ、無視したい、やりこめたいと思う気持ちと逆方向の事をやるのです。
もちろん、聖人ではないので、毎度心の摩擦は起こります。でもゼロにしかならないやり方→切り捨てることをしないので、結果として「何かが残りやすい」
メールへの返信は期待していなかったのですが、返信をもらいました。そこには自分の不躾さを詫びつつ、提供した情報と対応に感謝が綴られており、「相手に何かを残せた気」「相手から何かをもらえた気」がしました。
これはまさに承認欲求。
まだマズローの4段階目から抜けられないみたいです(トホホ)
コロナで一人でいる時間が増えたせいで、嫌だと思うほどのやり取り、交流を、コロナ時期に出来ていません。他者との交流不足もあるかなと。摩擦は刺激でもありますから。
一人になりたくてひとり個人商店をやっている訳ではないのだと改めて思いました。人が集まり交流できる場所として雑貨屋という形態をとり、そのハブとして私はいろんな方の話を聞いて、それを誰かに伝えていたのになと思い出しました。今、出来ていないなと自覚。
コロナで来店数が落ちたまま、寂れ埋もれている感覚に焦りを覚えていること、見ぬ振りをしていたことを見ちゃった感覚。ヒト、モノ、情報が集まる場所は、活気があって身を置くと元気がもらえるもの。当店の場の力が、コロナで落ちまくっているなと感じます。これこそ、見ぬ振りをしていたことを見ちゃった感覚。
一人で成長できる枠と、他者がいてこそ磨かれる枠と、人生にはどちらも必要、大事。
一人でいる時は、一歩一歩地面を歩む感じ。
どんどん遠くへ歩いていく感じ。
線を歩む感じ。
他者に磨かれる時は、相手との相乗効果で、街のような面の広がりを味わう感じ。
面の広がる感覚を、今年はもっと味わいたいなという欲が芽生えました。
もっと頑張ろう。
今月は、場づくり空気づくりを心掛けて、お店番楽しもうと思います。
商いは牛の涎と言いますが、続く分には細く長くで構わないけれど、コロナも4年目に入り、極細感が出てきて(/ω\)イヤン
今日は月末支払いのために銀行巡りして出勤したんですがUFJのATMの行列が半端なくて、仮店舗で台数減ってるから仕方ないけれど、牛の涎並みの行列に心折れ掛けました(トホホ
行列がいくつも折り返す中で、コロナ怖い方だと思うのですが、前の方との間隔を2mは確保したい方がいました。
後ろも左右も1mもあいてない状態で、ちょっと異様な光景。その方は頑張って自分がコントロールできる前の距離は確保し続けました。
この方は、周りを見渡しながら並んでいたので、自分が前だけ距離を確保しても、周りが協力してくれないと望む形にならないことを認識はしていたと思います。私は、意図は分かるが無駄な突っ張りしているなと思って眺めていました。
わたしはつい妄想。
その方の空しさや怒り、悲しさを妄想せずにはいられませんでした。
あの方には生き辛い世の中なんだろうなあ…
誰しも事情を抱えて生きていて、時に少数派になってしまうこともある。
その時に少数派を受容し優先したり、別の選択肢を用意したり出来るのにあのATMの行列にはその余裕が無かったなと思いました。レーン設計にも無ければ、並ぶ人々にも無かったなあ、と。
時間とお金に余裕があれば、誰しも基本優しい。今はその余裕がだいぶ減ったな~とコロナ禍を思いました。
本日のわたくしは、月末支払いで削られまくりで、余裕ぶっ飛んでますけど、心の中では、細く長くでいいから、他者への思いやりを持ち続けていきたいなと思っております(牛の涎的な人生訓
美彩の木彫、木目込み人形「牛の涎」をお迎えしたい方は【こちら】
私の趣味は、実益兼ねて、洋裁。
中学の頃に家庭科の授業でスカートを縫ってから、下手の横好きで趣味に連ねてきた洋裁。
病気して急に太って以来、ダイエットとリバウンドを繰り返し、若年性の更年期でますます巨大化して今に至る。既製服のデザインは、流行りがハマらないとどれも選べず。大きなサイズは、入るけれどもどこかが緩く、そのだぶつきが太さに変換され。太っているからみっともないのは仕方がない、と諦めるのも屈辱的。
デブなりに、おしゃれはしたいとなれば『やはり作るしかない』という発想に至って、ここ10年は、型紙の本を読んで既存型紙の寸法をカスタマイズしたり、一から型紙を起こしてみたり、段々上手になって外へ着て歩けるものが増えております。
生地は日暮里トマトで見切り品から選んで来る感じ。これは¥100/mで3m買ったから生地代は¥300なり。
思ったよりスケスケな生地なので、縫う時にスルスル逃げて少し苦労しましたが、ミリを追っかけるようなデザインでもないので、大らかにミシン掛け。
袖をラグランスリーブにして、肩のラインをボディラインに沿わせたのが今回のポイント。ギャザーでみぞおちからお腹に掛けてのラインを誤魔化し、首から肩にかけてスッキリさせることで、少しでも痩せて見えたいという願望が詰まったデザイン。
今回「三つ巻押さえ」なるものを導入。
背中側にくるリボンタイの端を三つ折りしてみたんですが、逃げる生地で作るのは難しかった・・・逃げない生地でもコツがいる道具で、まだ、掴めません。
アイロン前の撮影なのでシワやツレが気になりますが、数回洗濯してアイロンも掛ければ、縫い目もだいぶ落ち着いてくれる予定。
仕上げたらすぐ別なブラウスに仕掛かり中。
薄手の綿で、今回は身頃にフリルたくさんつけて仕上げたいなと妄想。
こんなに次々作る必要は無いのですが、ジッとしていると現在お悩み中のことをグルグル考えちゃうもので、作る行為に没頭することで現実逃避。
来月、テナントの更新があるのですが、コロナ明けで空気感が変わってきた気がする一方で、数字は変わらず。このまま本当に続けるのかどうか、正直不安になるもので、悩む訳です。地方の取引先に連休の様子を聞けば「人出は多かったが売上は伸びず」とどちら様も苦戦継続中(切ない現実です
先週テルゾさんに
「何でそんなどうでもいいこと考えるの?(意訳」
「やりたいことあるなら、やるにはどうするか考えなよ(意訳」
と言われて気分上がっていたというのに、現実問題を考えると、気持ちは行きつ戻りつするもの。
先の事でもうひとつの悩みは、これからの品揃えについて。
コロナの間、体力のない個人商店として、何とか維持継続を考えて「定番重視」で、安定的に売れる「消耗品を補充」で生き延びたところがあるのですが、コロナが終わる頃合いなので、そろそろ総入れ替えの勢いで、「刷新が必要」かなと感じております。やるなら大胆にした方がいいという判断が、浮かんで仕方がないのです。
前からコロナはいつか終わると考えてはいたのですが、それが2022年内で終わると予想していたのが外れ、そのままコロナが終わる実感も持てずに来たもので、おや、空気感が変わってきたかな?と感じ始めて慌てている、といったところでしょうか。それで、こっちの方向へ、というのがまだしっくりと心に降りて来ずに、モヤモヤしているところ。
何かに集中しながら、思考を整理・・・と思って服を縫い始めたら、結論に向かって思考するどころか、大きな判断をするのが怖くて、作業没頭で現実逃避をし続けているという。。。。本当に気が小さいな、と思いながら、時間が掛かるなら時間を掛けてぐるぐる考えるしかないな~とも思います。
この調子だと、5月末までこの調子で趣味の洋裁がはかどって仕方ない予感です(苦笑
連休最終日は雨。
結構な雨量、今日は絶対、人類滅亡。見越して持ってきた本を読了するのが目標です。
この雨はきっと「お休みよ、フォーエバー」な人々の気が集まり、風を呼び、雲を呼んだに違いない(妄想
とはいえ、春の雨は、植物には恵み。
疲れた人に、休みを促す癒しの雨。
雨音聞きながら、のんびり過ごせばいいかなと思います。
ああ、でも雨の日は売上が落ちるのつらたん(死語
思い起こすと、若い時は「そういう日もある」と考えることが出来ず、「雨が降らなければよかったのに・・・」と降らなかったら起こったであろう「いい事」に繰り返し思いを馳せたものです。
雨が降らなかったとして、いい事が起こるとも限らないのに、です。
現状が、自分にとって好ましくない、と感じているせい。
現状でなければ、好ましいと思っている、思いたい。願望。
過去に時間は巻き戻らない。
過ぎた時点の可能性をあれこれ考えるのに、時間と労力と心を使うなんてバカな事・・・
今の私は、そういう思考癖を辞められたので、降らなければ良かったのにとは思わなくなりましたが、きっと人類滅亡するだろうから売上ナッシングかも、と良くない未来を想像。
この起こるかどうか不明な未来を想像することも無駄なのに、何をやっているのやら。
最近、近所の洋服メインのセレクトショップ「テルゾ」さんと閉店後に初飲みのさし飲み。テルゾさんは5/20で今の店を閉店すると聞いていたので、一度ゆっくり話をしてみたかったと声を掛けたら「店閉めたら飲み行く?」と誘ってもらいまして、それで実現。いつでも会えそうですけど、場所があるから行き合える関係って絶対あります。商店街の店同士の関係はそれ。だから箱が無くなれば、もう会えない方が当たり前の関係。
私がテルゾさんに聞いてみたかった事は「店を辞めると決めた判断過程」
わたくし、起業する時に、こうなったら廃業すると要件や条件を決めて開業するべきと起業本で読んだので、一応いくつか決めておりました。最初の1年は儲からないもの、と読んでいたので、そんなものかと思いながらも、半年もしたら尋常ではない持ち出し額とスピードに「本当にあと半年で収益が出始めるの??」と不安になりながら、でも1年は様子見だから堪えるべきと見誤り。
持ち出しが痛手になるほど多くなると、辞めたらゼロになると思うから、辞めるのも怖くなる訳です。欲が判断を見誤らせるって本当です。その結果、私は11年目を迎えた訳ですが、あの時辞める判断をしていたら、もしかするともっと心労の無い暮らし向きだったかもしれません(ほらまた、余計なこと考えるw
テルゾさん、想像以上に「今を生きる人」でした。
「何でそんなどうでもいいこと考えるの?(意訳」
「やりたいことあるなら、やるにはどうするか考えなよ(意訳」
話を聞きながら「私、こんな風になりたい」と思えるカッコよさでした。話しにくいことにも答えてもらえて大感謝。コロナ苦境3年間を締めくくる、よい出会いになりました。
ちなみに、テルゾさんとは、また近いうちに会えるようなことになりそうで、また飲みに行けそうで、ホッとしております。
そして昨晩は、大学からの親友で情けないところも隠さず話せる相手に積もった思いを聞いてもらうタイム。問題はちっとも解決してないけれど、抱えている気持ちはだいぶ納まりました。凄いガス抜き完了。「明日からまた元気出して行きましょう!」とスイッチ入れて深夜帰宅(いつもありがとう
今年の連休の思い出は、そんな感じ(とても幸せ
コロナは終わりと実感できる連休、希望持って粛々と日々を頑張ろうと思います。
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駅前のカラオケ館に行ったのですが、結構部屋が空いていて、都心の繁華街は人出が戻っていても、江古田みたいな住宅地はまだまだだなと再確認。この戻りのタイムラグの間に潰れる小規模事業がこの先も増えるだろうなと予想。しかしそれも年内で片が付くだろうなと予想。結果は年末振り返ろう。
翻訳の日本語がとても読みやすい本でした。
映画や漫画で見る、マリー・アントワネットの髪形は、地毛ではありえないと思っていたのですが、その疑問が随分解決された本。
歴史資料を読み、当時のレシピで作り、当時のやり方で1年過ごしてみるという実践込みで書かれた本。
著者自身がやる前に、現代人の感覚で立てた予想がいい意味で裏切らるたび、それを読んだわたくしが「え!そうなの!?」と驚いたり楽しんだり、どこを開いても楽しい本でした。
最初は、やはり造形的に面白い髪形の作り方に釘付け。
私は、当時の装飾的な髪形はかつらなんだろうなと思っていたので、髪形を盛り上げるためのクッションの存在にまず驚きました。
ちなみに、男性はかつら装着だったそうです。女性達にはかつらは不人気だったと書かれていました。かつらをつけた女性というのは、どこか揶揄するニュアンスを含んで描かれる事が多かったようです。何故男女で異なるのか、不思議。
ボリュームが欲しいところに、土台として潜ませるクッション。ヘアピンを挿す時の土台にもなるもの。ボリュームの出しやすさやピンの挿しやすさは形の維持にも関わるので、クッションの充填素材は、身近なものが使われている中でも、良し悪しがあった模様。
当時の髪形は、自力で結い上げることが出来なくもないのですが、一から作るとなると相当時間を使うのが見て取れるので、腕を上げ続けて髪を一人で結うなんて、腕がプルプルと筋肉疲労で痙攣しそうです。手早く美しく仕上げてくれる髪結いは、無くてはならない仕事だったんだなと感じました。
ちょっとお出かけを・・・なんて思ったら、今の女性の何倍も労力掛けて用意しなくちゃいけない訳で、きれいな格好している人は、やはりそれなりの財力が求められる訳で、庶民の方はどうだったんだろうかと気にもなるところですが、庶民の方々も流行を追える方達は同じように髪結いしていた模様。
1780年頃、髪を縮れさせボリューム出してふわっと仕上げるのが流行ったそうで、コテを使ったカールやウェーブの作り方は、パーマ液が無い時に、は現代でも応用できるやり方だなと思い、じっくり写真に見入ってしまいました。
1750~1790年あたりの流行を紹介してあるので、変遷をみるのも楽しいはずです。
いずれの時期も、髪の美しさや衛生のために使われた「ポマード」と「髪粉」の存在が大事なアイテム。当時のレシピを元に、現在入手できる材料に置き換えたりしながら、作り方も紹介されています。頬紅とリップクリームのレシピも載ってました。
現代の化粧品の原材料は、化学物質の名前の羅列で、読めてもどんなものか理解できない印象ですが、ポマードの基材は獣脂、髪粉の基材は小麦でんぷん、と食べられるもの。著者も言及しておりますが、現代の化粧品より肌に優しいかもしれません(笑
ポマードは髪形をかっちり固めるイメージでしたが、油分を補い、しっとりさせる目的。根元から毛先へと、全体に馴染ませる感じ。そこに髪粉。細い髪にまぶすとボリュームを増すし、ドライシャンプーのような役割もあったとか。
ポマードつけて髪を櫛でとかし、髪粉をまぶして櫛でとかし。時間を置くとそれぞれが髪に馴染み、髪形を成型しやすくもなるようです。ガチガチに固めるのではなくて、櫛通りが良い状態をが完成形。
写真では、やはり粉をまぶすと髪色が白く粉っぽい色合いに見え、艶もあまり感じませんで、思い起こすと名画の女性の髪そのもの。後年、自然な髪の艶がもてはやされるようになるのは、この時代の髪粉があったからこそ、新鮮にも見えたろうし新しい美しさにも見えたのかなと思いました。
著者が1年間、ポマードと髪粉&18世紀の髪型を結って生活した結果、髪を頻繁に洗う必要は全く感じず過ごせたそうです。1週間~2週間ごとにポマードと髪粉をつけ直し、毎日櫛けずって落ちていく髪粉と一緒に汚れも落ちる、そんなイメージ。ホームレスのような臭いを消すために香水が発達したのだろうと思っていましたが、そんな臭いは元々しなかったことが判明です。
盛り盛りした髪形は、朝結って、夜ほどいて櫛けずる繰り返し。一度作った髪形は癖が残るので、翌朝作りやすかったとか。
実際やってみた方の体験談が、やはり一番興味深かったです。
それにしても、18世紀の髪形を結うにはせめて肩につくぐらいは長さが必要で、やってみるために伸ばしたくなりました(笑)長い髪の方、ぜひこの本を参考に、やって見てくださいな。
たまに来て会話弾む自炊男性、いつの間にか友達。
糠漬けや今夜のメニューなど、食べ物に関する話題で盛り上がることが多い私達。
その男性が、最近「塊り肉を料理する本」を購入。
著者のYouTubeチャンネルをいつも見ていたそうで、あの調子ならぜひ買って読んでやってみたい!と思ったとか。
その実施+検証報告を、Twitterで数日追っかけてみているうちに、なかなか美味しそうだったので私もやってみることに。
男性とも話したのですが、都会のスーパーは塊り肉が売り場に無い傾向。好きな部位を選ぶというより、そこにある塊でやってみることに。ということで、私の1回目は豚バラ。
下処理は、重量に対して、塩3%、砂糖1.5%をあらかじめ混ぜてから肉に満遍なく刷り込み、ラップして2日放置。
脱水され、熟成もあるのか、肉質ねっとりに変化。
既に話に聞いていたので、悩まず5㎜に切て焼いて試食。
豚の肉のうまみ、脂味の甘さが強くなり、水が抜けてしっかりした噛み応え。
普段豚小間率が高いわたくし。
薄切りの生肉の味わいより、塩豚5mm厚の方が断然肉の美味しさが伝わります。
極薄に切るのは難しそうですが、豚小間程度に切るのは問題もなし。包丁の切れ味と、刃に付く脂を拭きながら切るとよい感じ。
コストパフォーマンス的にも、一回の購入金額は増えたとしても、全体的には安く上がるかなと計算してみて思いました。
なんか、予想外に美味しくて扱いやすいもので、今まで薄切り肉を買っていたのを若干後悔し始めるほどです。
件の男性が美味しそうな焼きそばをSNSにあげていたので、野菜と一緒に炒めて焼きそばにしてみたところ、確かに美味しい。いつになく美味しいのです。後から調味料入れると、表面に味がついていて、バラつきも出る。焼きそばの場合、具材と麺の味のバラつきが出来の良さにつながると思うのですが、塩豚を使うと肉の塩味は均質で、麺との一体感が上がる気がしました。
塩気はきつめなんですが、1週間かけて少しずつ切り焼いて食べた結果、4日目頃から塩慣れして、しょっぱさはあまり感じなくなります。これはキッチンペーパーで包んで、毎日紙を交換しながら水分コントロールすれば、2週間は持ちそう・・・
持ちそうですが、何だかんだ使って食べ始めたら3~4日でなくなっちゃう(笑)近所のスーパーで売ってるブロック肉はあって600gぐらいだし、毎食自炊でお弁当にも使えばそんなものです。
鶏むね、豚肩と、同じようにやってみて、現在は塩2%/砂糖1.5%が私好み、というところにたどり着きました。3%だとちょっとが塩辛くて、後で醤油や味噌で味付け追加してみたら、味付けに失敗した感が拭えない塩辛さ。。。カスタマイズするのか、このやり方だと○○の時にいいなと使い道を絞るのか、工夫、工夫。
生肉のままだと、鮮度の落ちないうちに、なるべく早く使わなくちゃとどこか急ぐ感覚があったのですが、この前処理すると落ち着いて食材使えるなと思いました。
一度お試しあれ。
花保さんが持ってきたポスター。
見覚えのある紙質、判型、色合い。
これは、江古田ゆうゆうロード名物、ナイトバザールのポスター。
3/25開催のポスターが今頃配られるということは、随分ギリギリに決めたのだろうな、と予想され、当店はコロナでダブルワークで時間が取れないので役員会には参加していないので、裏側を想像するばかり。
奇数月の第三土曜日に開催するこのイベント、143回を6で割ると25年近く続いているイベントです。コロナの3年間、中止続きで、運営側は高齢者しかいないし、もう出来ないのかもなと思っていたイベントですが、いよいよ再開(おめでたい
普段は人類滅亡通りですが、この時ばかりは近隣から1500名ほど集まり通りが混雑する名物イベント。屋台が出るかどうかは不明ながら、撮影会とその他の観覧できるイベントはいくつかご用意あるようですから、皆さん遊びに来てください(手帳にメモるのです!
今回の目玉は、ウルトラマンエックスとウルトラマンジードとの撮影会。うちの商店街のイベントは、子供が楽しめば親も嬉しいをコンセプトに遠出しなくても楽しいひと時を目指してイベント運営してます。
お子様連れでいらっしゃいませ。
もちろん大きなお友達もたくさん来てくださればと思います。
今日は東日本大震災の日。黙祷をと思ったら、えこだの山賊さんが飛び込んできて、どうでもいいような日常の雑談スタート(笑
ひとりで平和な日常を過ごすことも出来ますが、ずっとひとりでは変わりばえもなく、退屈で色の無い平和になってしまいそう。
目の前の山賊さんが、何でもない話を盛りに盛って楽しそうにしゃべる姿は、生きているからこその姿。弾ける生命力的なものを感じ、光に当たるイメージ。
毎年、あの災害で道半ばで突然亡くなった方の無念さを思うのですが、私は関わる人達を大切にしながら、愛のある時間をたくさん過ごして死にたい、だから生きているうちは頑張ろうと思いました。
黙祷は、今夜寝る前にでも、気持ちを鎮めて行おうと思います。
最近、麻雀を自習しております。
高齢者になるまでに「囲碁、将棋、麻雀は覚えておく」という計画をしており、やっと麻雀に手を付け始めました。
概ねざっくりなルールと役が分かったところで、AI麻雀を繰り返しやり続けること2週間。AIの学習方法と一緒で、繰り返して行くうちに法則性を見つけたり、コツが分かってきた気がします。負けるたび、今のはどこで間違えた?と短く振り返りをすることで、だいぶ分かってきたと思います。この状態で本を読むと、意味が分かるので頭にも入りやすく、今回はなかなかいいやり方が出来たなとほくそ笑み。
ここからしばらくは、点数の計算方法を練習して、最後に実際の牌を触りながら配牌など物理を覚えられたらなと思っているところ。商店街仲間に相談すれば、誰か牌を持っている人はいるだろうから、その方にお作法を教えてもらいながら、ゲームが出来たらなと思っているところ。
今ある人脈は、囲碁、将棋、麻雀抜きの人脈。私が教えられるほどルールを把握出来たら、みんなでいつか遊べるようになるのも良し、麻雀を介して新しい人脈と遊ぶのも良し。
定年退職後にやる事がなくて退屈している夫が邪魔で、、、なんて雑談をたくさん聞いてきたので、趣味はいきなり身に付かないと分かっているわたくし。確定申告も終わりすっかり暇なので暇つぶし★
コロナ前ぐらいの忙しさが戻って欲しいのは山々なのですが、SNSを頑張って投稿しようが、何か大きな氷山が塞いでいるような気配で、動かないもので、もう個人がどうこうするレベルは過ぎたなと、運を天に任せて一生懸命に遊んでみている、そんなところ。
すぐに解決できない事を抱えて、しんどい気持ちで生きている人はたくさんいるはず。みんな、それでもそこを越えたり、やり過ごして生きていくしかない。
しんどい気持ちで、渋い顔して生きていく時間より、考えても解決しないなら置いておいて、楽しく過ごす方がいい。10年前は出来なかった「置いておく」が今は出来るようになったな~と思いながら、麻雀。真面目にお店番している風を装いながら麻雀。
地方へIターンした元同僚が上京するというので、会える人で集まり食事会@神楽坂。
近況報告とも言えないような雑談の中で、世間狭い話が飛び出しました。
東京から遠く離れたIターン先。
たまたま参加した小さな集まりで、たまたま小耳に挟んだ単語から元上司の知人と気づき、恐る恐る話し掛けてみたところやっぱりそうで、つい話が盛り上がり、元上司に今度会いたいという伝言もらった、という話。ちなみにその方、アメリカの西海岸方面在住の方で、普通にしてたらIターン先では行き合わない行動圏の方だったとかで、ご縁の不思議と世間の狭さを感じた、という話でした。
そして、共通の知人がいたとして、一時盛り上がるとしても、その後が続くかはまた別で。
私の印象ですが、出会うにしても、互いのレベルや空気感が近いからその後が生まれ、不思議なご縁で出会ったと言ってみたりする訳で、ベクトルの違いや差があると、必然でご縁がつながらない。そこに不思議なんて無いような気がしております。
「こんな人と知り合いです」と言う側は、相手を上か横に見ている方が多い気がいたします。わざわざ言うぐらいだもの、そこには相手に対する尊敬や崇拝や好意があると思うんですよね。逆に、下に見ている人とは、付き合っていい方か様子を見るので、時間を掛けて知り合っていく感じで、一気に距離を縮める軽率さは少な目な印象。
元上司は猛烈な仕事人で、発想と思考力、行動力が素晴らしく、とにかくT社の海外営業部門の界隈では有名人でした。長く仕事をしているせいで、T社内でペーペーだった担当が偉くなっていくのを見ながら、彼らの仕事をこなしては信頼を得ていったのが元上司。下請けのくせに、物申すこともある人。下請けの立場というより、T社なら未来を思えばこうするべきじゃないのか?という発想で仕事をし続けた人だと思います。それが、衝突しながらも最後収まった時に、担当氏やその上司達に感謝され、元上司の意見が採用されようが不採用だろうが、元上司の真剣に触れたT社の方は感謝をする、そんな感じで人脈が広がっていった有名人。
その元上司を知っていると言う人は、きっと元上司と良い仕事の思い出を持っている人で、その元上司につながる目の前の元同僚にも、その欠片があるはずと信じて、気安く話を始めてくれたのではないかなと思うのです。
とはいえ、大人同士ですから、剥げやすいメッキはすぐ分かる。話すうちに、思い出話を楽しんで終わりにするか、相手は考えながら話していた事でしょう。そういう時、目の前の相手が付き合うに値するか、やっぱり最後はそこになるかなと思うのです。
礼儀や気遣いのある話し方、態度、表情。言葉使いに話の組み立て。年齢差もあれば、心地よさの感覚も違いますから、相手に寄せるだけの経験値。共通の知人というきっかけを越えるだけの魅力が、そこにあったという事なんだろうなと思う訳です。
最近まで、世間が狭いという言い方がしっくり来るなと思って使っておりましたが、会うべくして会うようになっているのかもなと変化しております。元同僚は、会わずにいた間に、とても良い時間を過ごしていたのではないかなと思い、いいな、羨ましいやと思った次第。
私そう言えば、元上司の参加する集まりには必ず出たい派だな(笑
まだあそこが心の中のトップなんだなと思って、にやり(大好きな元上司
顔馴染みのお客様からたくさん銀杏をいただきました。
銀杏は好きですが、買うと高いもので、たくさん貰ったのをこれ幸いと、豆ごはん並みに銀杏を入れて米を炊こうと、殻剥きにいそしんだ休日。
専用の道具なんてありませんから、キッチン鋏を利用してヒビを入れ、握力駆使して力仕事。ひと仕事終わっても薄皮剥き。これがなかなかするりといかず。
乱暴にすれば力加減を誤って傷をつけ、どうせ自分しか食べないのだからいいやと思いつつ、落ち着け自分と思い直し、息を殺して薄皮剥き。
1食分に10粒入る計算で、5食分ぐらいだから60粒(計算おかしいが私的には没問題
ああ、この作業を楽しいと思っていない自分がいるな、と思う。
若い時は、『つまらない仕事を楽しくする方法』みたいなコピーライトにひかれて、啓発本よく読んだなと思い出す。
つまらない事の本質はつまらないんだけど、「だけど」「それなのに」やるところに意義がある訳で・・・例えば、銀杏は「美味しい」
皮剥きはつまらないけれど、美味しいにたどり着くには、剥くしかないのである。
①自分がつまらない思いをして剥くか、
②剥いた銀杏を買うか(金で解決)、
③剥くのが好きな人が知人にいて、頼んで剥いてもらうとか、
④苦労して剥いたが多過ぎたという知人が私が銀杏好きなのを思い出してお裾分けくれるか、
何しろ剥く行為をする人と、対価の有無のコンビネーション。
③と④は互いの好みを知り合う程度の付き合いが必要なので、時間も必要経費。銀杏もらっといて②は無い。①しかない。四の五の言わずに剥け、自分。以上。
また、以前神様から降りてきた言葉「虫のように生きる」が思い浮かびます。
自分の代わりにやってくれる人がいないのだから、私がやるしかないのです。
たまの事なので、やり終え、美味しい銀杏ご飯完成。
人生や仕事も、こんな風で、やりたくて楽しいことばかりではないのよのぅ。
銀杏は、剥くだけでいい。
先行き分からない事に時間投資するよりは、うんと気持ちが楽かもですよ。
自分が好き「だった」感覚を思い出す出来事がありました。かなりご無沙汰していた感覚。
思い出した瞬間、今まで自分に足りなかったものに気付いてしまい、今のままで個人商店をやっていると、足りないままかもなと少し心が揺れてしまいました。
HPに寄せられる問合せに、どうやら法人の担当者から、本来ならメーカーへ問合せすべき内容のお問合せがありました。
聞く相手を間違えている点。
質問内容があまりに素人な点。
デザイン事務所と書いてある割に、自分で考えたり調べたりする事もなく、その手間を省くために質問してきているようで、これは手抜きだよねと嫌悪感。
私自身デザイン業界で仕事をしていましたが、扱う素材や作り方、使用工具など工程を理解していないと、企画も図面も作れなかったし、見積もりだって作れなかったけどな~と思いました。
問合せといえば、無料で対応してもらえる。
なんて素敵なカモフラージュ(黒笑
でもな、
この人は、もしかしたらOJTも満足に受けられない社内でもがく新米デザイナー、かもしれない。私の場合は、周りの先輩上司のおかげで、ひとつひとつ出来ることが増え、上手になっていったのだから、私が社会への恩返しのタイミングと思えないかと変換。
この人は、もしかしたら転職したてで、畑違いにチャレンジ中のお父さん、養う家族のために必死な人、かもしれない。私も転職経験者だから、勝手が分かるまでは周りも大変だけど本人が一番大変だもの、と思えないかと変換。
この人は、私と同じように、毎日一生懸命生きている人、かもしれない。
そう思い直して、真面目に返信してみました。
この店を始めて分かったのですが、嫌だな、不快だな、不満だな、理解できないな、等々、ネガティブな感情が湧いた時は、その感情に流されてしまうと受容力が落ちる。いらないと切り捨てる。後には何も残らないどころか、マイナス気分が残る事が多いです。
この「何も残らない」というところがポイント。
イライラする自分を認め、イライラしてるな~と感じつつ、無視したい、やりこめたいと思う気持ちと逆方向の事をやるのです。
もちろん、聖人ではないので、毎度心の摩擦は起こります。でもゼロにしかならないやり方→切り捨てることをしないので、結果として「何かが残りやすい」
メールへの返信は期待していなかったのですが、返信をもらいました。そこには自分の不躾さを詫びつつ、提供した情報と対応に感謝が綴られており、「相手に何かを残せた気」「相手から何かをもらえた気」がしました。
これはまさに承認欲求。
まだマズローの4段階目から抜けられないみたいです(トホホ)
コロナで一人でいる時間が増えたせいで、嫌だと思うほどのやり取り、交流を、コロナ時期に出来ていません。他者との交流不足もあるかなと。摩擦は刺激でもありますから。
一人になりたくてひとり個人商店をやっている訳ではないのだと改めて思いました。人が集まり交流できる場所として雑貨屋という形態をとり、そのハブとして私はいろんな方の話を聞いて、それを誰かに伝えていたのになと思い出しました。今、出来ていないなと自覚。
コロナで来店数が落ちたまま、寂れ埋もれている感覚に焦りを覚えていること、見ぬ振りをしていたことを見ちゃった感覚。ヒト、モノ、情報が集まる場所は、活気があって身を置くと元気がもらえるもの。当店の場の力が、コロナで落ちまくっているなと感じます。これこそ、見ぬ振りをしていたことを見ちゃった感覚。
一人で成長できる枠と、他者がいてこそ磨かれる枠と、人生にはどちらも必要、大事。
一人でいる時は、一歩一歩地面を歩む感じ。
どんどん遠くへ歩いていく感じ。
線を歩む感じ。
他者に磨かれる時は、相手との相乗効果で、街のような面の広がりを味わう感じ。
面の広がる感覚を、今年はもっと味わいたいなという欲が芽生えました。
もっと頑張ろう。
今月は、場づくり空気づくりを心掛けて、お店番楽しもうと思います。
商いは牛の涎と言いますが、続く分には細く長くで構わないけれど、コロナも4年目に入り、極細感が出てきて(/ω\)イヤン
今日は月末支払いのために銀行巡りして出勤したんですがUFJのATMの行列が半端なくて、仮店舗で台数減ってるから仕方ないけれど、牛の涎並みの行列に心折れ掛けました(トホホ
行列がいくつも折り返す中で、コロナ怖い方だと思うのですが、前の方との間隔を2mは確保したい方がいました。
後ろも左右も1mもあいてない状態で、ちょっと異様な光景。その方は頑張って自分がコントロールできる前の距離は確保し続けました。
この方は、周りを見渡しながら並んでいたので、自分が前だけ距離を確保しても、周りが協力してくれないと望む形にならないことを認識はしていたと思います。私は、意図は分かるが無駄な突っ張りしているなと思って眺めていました。
わたしはつい妄想。
その方の空しさや怒り、悲しさを妄想せずにはいられませんでした。
あの方には生き辛い世の中なんだろうなあ…
誰しも事情を抱えて生きていて、時に少数派になってしまうこともある。
その時に少数派を受容し優先したり、別の選択肢を用意したり出来るのにあのATMの行列にはその余裕が無かったなと思いました。レーン設計にも無ければ、並ぶ人々にも無かったなあ、と。
時間とお金に余裕があれば、誰しも基本優しい。今はその余裕がだいぶ減ったな~とコロナ禍を思いました。
本日のわたくしは、月末支払いで削られまくりで、余裕ぶっ飛んでますけど、心の中では、細く長くでいいから、他者への思いやりを持ち続けていきたいなと思っております(牛の涎的な人生訓
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