銀杏剥き

顔馴染みのお客様からたくさん銀杏をいただきました。

銀杏は好きですが、買うと高いもので、たくさん貰ったのをこれ幸いと、豆ごはん並みに銀杏を入れて米を炊こうと、殻剥きにいそしんだ休日。

専用の道具なんてありませんから、キッチン鋏を利用してヒビを入れ、握力駆使して力仕事。ひと仕事終わっても薄皮剥き。これがなかなかするりといかず。

 

乱暴にすれば力加減を誤って傷をつけ、どうせ自分しか食べないのだからいいやと思いつつ、落ち着け自分と思い直し、息を殺して薄皮剥き。

1食分に10粒入る計算で、5食分ぐらいだから60粒(計算おかしいが私的には没問題

ああ、この作業を楽しいと思っていない自分がいるな、と思う。

 

若い時は、『つまらない仕事を楽しくする方法』みたいなコピーライトにひかれて、啓発本よく読んだなと思い出す。

つまらない事の本質はつまらないんだけど、「だけど」「それなのに」やるところに意義がある訳で・・・例えば、銀杏は「美味しい」

皮剥きはつまらないけれど、美味しいにたどり着くには、剥くしかないのである。

 

①自分がつまらない思いをして剥くか、

②剥いた銀杏を買うか(金で解決)、

③剥くのが好きな人が知人にいて、頼んで剥いてもらうとか、

④苦労して剥いたが多過ぎたという知人が私が銀杏好きなのを思い出してお裾分けくれるか、

何しろ剥く行為をする人と、対価の有無のコンビネーション。

 

③と④は互いの好みを知り合う程度の付き合いが必要なので、時間も必要経費。銀杏もらっといて②は無い。①しかない。四の五の言わずに剥け、自分。以上。

 

また、以前神様から降りてきた言葉「虫のように生きる」が思い浮かびます。

自分の代わりにやってくれる人がいないのだから、私がやるしかないのです。

たまの事なので、やり終え、美味しい銀杏ご飯完成。

 

人生や仕事も、こんな風で、やりたくて楽しいことばかりではないのよのぅ。

 

銀杏は、剥くだけでいい。

先行き分からない事に時間投資するよりは、うんと気持ちが楽かもですよ。