動画内で、宇治原氏が「大人は規制されずともやるべきではないのか」という言葉に最初引っ掛かったわたくし。
わたくしは、規制されてない事や罰則が無いことは、『個人の自由』だから100%達成できなくて当たり前だと思っています。
宇「緊急事態宣言は(自分の自由や権利を制限される事なので)出さないでくれというべきなのではないか」
宇「大人はそのことに気付いてないのではないか」
宇「規制してくださいって言うのは、出来ませんって言ってるようなもんで、恥ずかしいことではないのか」
聞き進めるうちに、私が『個人の自由』と思っていたのは、『自由の濫用』ではなかったかと、モヤモヤし始めました。
コロナのような国民全体の非常事態の折に、「義務ならやるけど、でも要請でしょ?基本私の自由やし、やるかどうかは分からない~」というのは、確かにおかしいなと感じました。
『事柄のレベル感』が狂っているというか・・・
自分がやりたい事をやりたい時にやりたいように好きなだけ、誰しもそんな欲は持っていると思います。でもその自由とは、社会生活者であれば、他者へ迷惑を掛けない範囲で認められるもの。
続いて、
宇「Aという対策が効果あったのか/なかったのか、守って無い人がいるせいで正しく評価できない、判定出来ない」
コロナで経営の危機を抱えている私のような個人商店は、政府や行政が役立たずと非難したくなる気持ちが時間を経るごとに強くなるけれども、確かに計測できるほど統制とれた行動が、1年越えた今は出来ていないと誰もが認める事だと思います。
「私と違って、出来ていない人が居る」という方が多いはず。
宇「守れない人がいる前提で対策を立てろという人がいるかもしれないけれども、出来ないって言うの恥ずかしい事じゃないの?それ分かんないの?」
統制=不自由=悪と考える思想の方からすると、恥ずかしくないの?と言われたら反発感じるかもしれませんね。
自分は出来ているが、出来ていない他者が居るという認識でいるから、その他者を規制したい、罰したい、という感覚の発露だろうけれども、
緊急事態宣言など、これは該当地域全体に掛かる規制で、出来ていない誰か「だけ」を限定的に規制するものではないんですよね。(規制してくれという事で、自分が不利益こうむるの図)
そして、出来てない誰かを自分と『切り離し』て見る考え方をする限り、一丸的取り組みは出来ないので、みんなで○○していこうよ、という気風を作って行く方がいいのではないか?という問いかけでもあり、
近頃SNSを見ていると感じる分断が何故起こるのかが、非常に些細なことをきっかけに、「私はあなたとは違う」「あなたはいらない」「私は正しい」あちこちでプチプチと自他の切り離しが起こっているせいかもな~と思ったり。
この話題はみんなで話し合ってみたいなと思うような話題でした。
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