こうすればいいのに、あの人は何故やらないんだろう。
ふと疑問が浮かんだ風を装いながら、
相手に対する不満がギラギラと出てしまう時があります。
人間だもの by みつを(ふふふ
他者と交わる商店街活動や個店同士の付き合いは、
楽しいながらも冒頭のギラギラと隣合わせ。
学校や会社で毎日顔を合わせる仲間と違って、
阿吽の呼吸になるまでが掛かりますから、
過渡期はどうしてもギラギラする瞬間もあります。
そして、ギラギラが去来している最中は、
何で(こんな簡単なことが)出来ないのかな?という思いが
ど真ん中にあるような…
心の波風も立てずにスルー出来たと思っていた某日の出来事が
寝入りばなに浮かんで来た夜。
ふつふつと不愉快な感情が浮かびかけた時、
「私にとって簡単だからといって、
あの人が出来るとも限らないものよ」
と言葉が浮かんできました。
こういう時の言葉は、自分の言葉でありながら、
どこからともなくわいて湧いて来たような印象もあり、
誠に不思議。
ここから、ちょっと電波なことを書きますよ。
私は、自分という人間が、時にAと思い、時にBと思い、
くるくると気が変わるのは何故だろうと思っておりました。
反射的、直感的な言動をしてしまう時があると、
普段の自分と一貫性が無くなることがあり、
これはどうしてなのだろうかと長年疑問に思っておりました。
その振れ幅の大きさから、ひとからは気分屋と分類され、
自分でも支離滅裂感があるもので、自己嫌悪。
自信なんて持てないから、心も不安定。
かれこれ50になって、たどり着いた結論は
「私は1人ではない」のかも知れない、ということ。
体を入れ物とする「魂的な存在」が存在しており、
ひとつの体の中には、いくつも同居しているに違いないと
思うようになりました。
しかも、私を構成する魂的な複数は、
日によって、この体に居たり居なかったりするようなのです。
同じ仕事をやっているのに、
「日によって」億劫だったり、サクサク出来たり、
明らかに自分なのに違う日があるはず。
そういうのも、説明がつくではありませんか。
「生きるって何かもう、いろいろあって大変なんだよな、、、」
という気持ちを、相田みつをさんの「人間だもの」に見出す人が
たくさんいることからも、私以外の人も似たようなものなのでしょうね。
みんな、自分は1人じゃ無いのです。
社会的には信じられておりませんが、そうなのです。
(そう思えば、一人でいても孤独ではないのかもよ。)
以上、電波コーナー終了。
寝しなに浮かんできた言葉、
「私にとって簡単だからといって、あの人が出来るとも限らないものよ」
ああ、他人を許しなさいとどこかの聖人が言っていたような(ウトウト
続きがありまして、
「相手にやらせて出来ないと怒るより、
出来るあなたが代わりにやってあげたら?」
という声も浮かんで参りました。
そう思えたら、
「私ばかりが頑張って、何だかイライラしたわー」
という不満が、
「あの人を助けるというのが今回のお役目だったのかもな」
と変化し、そのまま寝落ちです(笑
黒い気持ちでギラギラと暑苦しい心持ちの時は、
相手をどうこう思う前に、自分の本当の気持ちを探ること。
=今日の自分の中にいる魂的な存在との対話をしてみること。
自分の得意や出来ることが分かり、凄いな自分と自覚して、
ま、今回はいいかと、他人に対して大らかになれますよ(当社比!
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