愛ある言葉を紡ぐことが、私の仕事のひとつである

最近、坂爪圭吾氏のブログ「いばや通信」を読みふけり、坂爪氏の詩的な言葉遣いにとても憧れているところ。

 

真似は、結局「なんちゃって」「偽物」にしかならないと思う人が多いかと思います。真似には、オリジナリティが無いというネガティブな意味を込めて使う場面が今どきは多いと思います。

私は育った環境が津軽民謡を生業とする家で、先人の芸能をひとまず完コピ(真似)が既に難しい世界なので、真似はポジティブに凄いことだと受け止めるものでした。

真似は≠(ノットイコール)偽物という常識の中で育ち、真似る対象のレベルや、真似る目的によっては、立派な芸術行為になりうるという感性で生きております。

工芸の世界だって「写し」なんて言葉を使いますから、ハイレベルなものをリスペクトし、追いつきたい、何なら追い越したいと思ってやる真似っこは、新しさを生む事もある訳で、誰かのオリジナリティを侵害する行為ではないと思うのです。

 



(概念としての話なので、具体的な真似事例を、おしなべて侵害してないと言っている訳ではありませんので、ご容赦願いますよ。)

 

もとい。
坂爪氏のブログを読みながら、彼の言葉の中に感じる希望の光のような力に惹かれ「ああ、私は愛の泉だということを、忘れていたな」と振り返り。

愛の泉とは何か。
わたくしが時折唱えているおまじない。

自分の存在が、そうありたいなという宣言のようなもの。

私は愛の泉です。
あふれる愛の泉です。

とめどなく流れる愛の泉です。
私は泉の水を、出会う方全てに差し上げます。

私の泉の水を飲み、乾きを潤した方の笑顔が

わたくしの泉の源泉…といった調子。

寝起きにつぶやくことが一日のスタートの儀式でした。
私にとっては、呟いて心地が良い言葉だし、そういう存在になりたいなという意思表明でもあったので、続いていた習慣だったのに、そういえば、最近すっかりご無沙汰していたなと思い出した次第。

 

愛の泉。

坂爪氏のブログでも書かれていましたが、自分が満ち足りていると、人に与える余裕が出来ると私は信じております。心配事や悩みに囚われたりで「心の安心感」が危うい生活を送っていると、心が閉じるというか、「自分大変で他人を気に掛けていられなく」なる。

事業は6年目に入りましたが左団扇には程遠く…(苦笑
でも、心は大いに安定しているところを見ると、私の場合、金銭的な量よりも、精神的な満足感の方が幸せ関与率が高いみたいです。

 

私の泉は、いま満々と水をたたえている状態。

大丈夫だ、このまま進もうと思える状態。

とはいえ、毎日やっていることは、小売店のお店番だから、満水でも世界の理不尽をことごとく滅することは出来ません(ああ残念)

 

ああ、ささやかだな、非力だな、何も出来ないなと、こんな年まで生きてきたけれど、何が出来るんだろう、何が残せるんだろうと思うことが、たまにあります。生きている限り、仕事をしている限り、何か「成果」が有るべきなんだという迷信に惑わされているんですよね。

 

変化は必ずしもいいことばかりではない。

自然界の変化は、後退、悪化、退化もある。

でもわたくしは、ビジネス新書を一生懸命読んで、これが最新などと信じていた、サラリーマンの頃の癖が抜けきらず、たまにこのままでいいの?と意味もなく悩む時があるのです。

そんな時に出会った坂爪氏のブログ。

ひとつの記事が結構な文字数なのですが、読んで気持ちが軽くなったり、楽しいなと感じたり、その通りだなと思ったり、凄いなと思ったり、そうなるといいよなと希望を持ったり。

一人の方からあふれる言葉だけで、私という誰かがたくさん心を動かしている状態が、凄い。


そうか、私も、せめて「愛ある言葉を紡ぐ」ことを意識してお店番をしていたら、誰かが笑ってくれる回数が増えたなら、私の愛の泉の源泉が増えて、幸せ貯金が左団扇になりそうだなと妄想がむくむくしております。

なれたらいいなと憧れながら、坂爪氏のような、詩的で実の詰まった言葉遣いを目指そうと思います。


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