よそはよそ、うちはうち

窓辺の手ぬぐいを春の花に変えました。
白地が並ぶと少し寂しい印象に感じる自分に気づきました。

 

デジタルコンテンツに囲まれて、余白までも色の洪水的ビジュアルばかり目にする生活で、白の面積がある割合超えると、密度の低さを感じて寂しいと変換しちゃうようなのです。

人の心理で、白紙を目の前にすると埋めたくなると本で読んだことがあります。密度の高いビジュアルを見ると、満たされている気になるのかもしれませんね。

でも私は余白を余白として楽しめる感性も大事にしたかった方なので、白があるから春の花の色が引き立つという発想に自分を引き戻し。

 

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最近、姪の進学祝いについて妹と雑談した時のこと。

 

妹のところへ、実家サイドから現金にしてと要望が入っていると聞いて、「いくら包む?」かを相談したのです。何故か足並みを揃えたがる伯母ふたり(笑

私の昭和な感覚だと、高校進学は今の日本では人並みイベント。

まだまだ親の庇護下で過ごす学生生活ですから、ひと月のお小遣いかちょっと色が付く程度でいいと思うのです。

そういう発想なので、¥5000が妥当と思うのですが、私達姉妹は普段から実家に帰る機会が少なくて、小さい頃から行きあうたびにお小遣いやお年玉をあげる事も少ないもので、「まあ、1万円かな」「うむ」

 

妹が「しかし、¥5000ってお前、しょっぱいね 笑」と言うので「よそはよそ、うちはうち 笑」とひと語り。

私達の母も「よそはよそ、うちはうち」とよく言っておりました。私達兄弟は、他人のお宅はこうなのに~と羨む事は少ない方でしたが、不満が残る時には不貞腐れる訳で、そういう時によく言われたものです。

結果として、無いものねだりをしても幸せになれないことを学びました。他人が喜ぶ事柄が自分の感性と違うと、全く喜べないどころか迷惑でしかない事も学びました。人にねだるよりも、自分で手に入れた方が喜びが大きい事も学びました。

価値基準、判断基準は、自分オリジナルで持ってこそ、幸せかどうか、満足かどうか、評価が出来るということ。

 

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今日いらっしゃったお客様が、SNSで見た方の発言や画像を信じて自分も試してみるも、思ったほどの変化が現れず、真似し続けていいのかどうか、迷いが出ていると雑談。

誰かに合う方法でも自分に合うと限らず。
この方は、SNSのどなたかのような変化が欲しいので、同じではない事で不安や迷いが出るのでしょう。

変化が見られるか、変化の具合はどうか、自分の体なのだからじっくり観察すれば分かるはず。なのに見たいものが他者の変化だとしたら、それは見ていても自分が見えて来ないと思うのです。

 

それに、人は環境や食事や、運動や、体質など、全く同じ条件にしてこそ比較できるはず。1つだけ取り入れても違いを感じるのは当たり前。その1つをやれば全部同じになるというのは願望であり、論理的ではないかも…

「よそはよそ、うちはうち」

でも都合のいいことは、同じがいいと思うのが人の心。

でも私は一人、あなたも一人、唯一無二の存在なので、よそはよそ、うちはうち。