幸福の日

今日は5(こう)月29(ふく)日、なんですって。


Twitterをやっていると、毎日いろんな記念日が目に留まりますが、こういう語呂合わせは多い気がします。

 

幸せを感じる時というのは、いろいろとありますが、一番をつけるとなると難しいのですが、一番に浮かんできたことが「制限の無い状態を楽しむこと」でした。

 

例えば、遅刻する、締切があるような状態は、どこか思考や行動に制限を課せられていて、楽しい事ややりたい事以外を優先しなくてはいけないから、ストレスになります。

 

だから「好きを仕事にする」ことへ万人が憧れるのだと思います。

 

「今起きないと遅刻する、でも後ちょっとだけ(むにゃむにゃ…」と二度寝落ちする瞬間の気持ちよさは、遅刻よりも、自分の快感や幸福を選択した気持ちよさでもあるかなと。

 

いま、ひとり個人商店を経営し、会社員の頃のような意味合いで、誰かの都合で動くことが無くなったから、そう実感しております。

 

失敗は全部自分に帰結するから、その事の重大さに震える時もありますが、それでも他者からの制限はありませんから、ストレスの質が、変な言い方ですが、意味を感じるストレスになりました。(だから、嫌ではない)

そんな気付きがあって、誰かがわたくしの都合を優先してくれたり、私の気持ちを大事にしてくれたりすると、以前より相手のその行為に対して尊さを感じるようになったし、相手への感謝の気持ちが深まった気がします。

二度寝する幸せに代表されるように、幸せなんてほんの一瞬感じる感覚なのだと思います。

続かないとはかなむよりも、その一瞬を、どれだけ有ると気づけるか。

どれだけ積み重ねたり、連続させられるか。

幸せと感じる要素・項目が、身の内にたくさんある、それが人生の豊かさに通じるかなと思います。

年を取るごとに経験は増えて、項目も増える。

だから、たくさん幸せになるには時間も必要。

だから、年を取る事や老いは悪いことばかりじゃない。

そう思えます。

 

昨日、川崎で恐ろしい殺傷事件があり、私のTwitterのタイムラインは誰かの悲しみや怒りで埋め尽くされました。

この事件ひとつとっても、幸せは永遠じゃない証明のように感じます。

世の中は本来不条理で、その不条理を減らそうと社会システムは存在しているはず。それでも毎日事故や事件は起きるし、それが自分に降り掛からない幸運の元、今の自分が生きている、そんな事を思いました。 

 

誰かの凶行で終わる人生なんて、悲しすぎる。

子どもがたくさん亡くなった事が痛ましい。

 

 

犯人を非難する気持ちが収まったら、次は再発しないように、何が出来るかを考える、行動する、改善するしか無い。そこは試行錯誤になるから、絶対や万全は無いと思いますが、確率を減らす努力をすることが、大人が子どもに対して負うべき責任かと思います。


あるTwitterアカウントが「私達がこの世の中を形作っている」「生きる事の素晴らしさを子ども達に教える事ができるだろうか」と落ち込んでいるのが目に入りました。

 

私は独身で子育て未経験だし、自分が人生の山谷を生きている最中なので、〇〇マスターや、プロフェッショナルやプロフェッサーではないから、教える事が出来るとは思えません。

 

だけど、大人の自分が、不条理はあると認め、だけど楽しく生きて見せることで何か伝わりますように!と思って生きなくちゃなと思いました。

 

 

幸せは、生きてるから感じられる、生きてきたことへのご褒美かもしれません。

 

生きる事が辛いと感じているあなたや私は、先々感じる幸せを思って、頑張って生きましょう。

 

 

 

(未来に、アニメ/サイコパスのドミネーターみたいなのが出来たらいいのにね)