自国の歴史を自習

私は20代の頃、政治とか経済とかよく分からないので、「ノンポリ」を掲げておりました。

 

 

学校で習った自国の歴史は、受験が終わると記憶から抜け落ちる程度。若くて経験値の無い知能と心は、そんなものに価値を見出だせず。ノンポリ、ノンポリシーという言葉は、便利ゆえに使っていた便宜上のポリシー。

 

 

一方で、自分には何か欠けているという感覚はちゃんとあって、だからといって何が欠けているのか分からないから勉強しようもないし、不全感がたまり続けたのが20代30代。

 

 

仕事がきっかけで出会う中国人や台湾人とのやり取りの中で、彼ら彼女らが自国の歴史をよく把握しているのに驚きました。彼らは、地政学的な観点も交えて歴史を語るので、日本の歴史も絡めて理解しています。

 

 

自分は自国の歴史さえぼんやりとしか分かりませんから、自信をなくしたものです。



大卒の学歴で社会人も10年以上やっているのに、何故か自国の事になるとよく分からなくなるのです。これは単に知識不足だからなのですが、一方で知らずとも仕事をこなせば生きていけるし、ずっとスルーしてきたと思います。知らないことへの後ろめたさがありながらスルーしてきたのには「知ることの怖さ」がありました。

今までの私は、戦争について知ることを恐れていたのだなと、今になれば思います。残虐非道な事柄を知ることと、学ぶ楽しさがイコールにならず、心がブレーキを踏んでいた感じです。 

 

 

ところが、隣国との関係性の摩擦係数がうなぎのぼりの状況をみて、何故中国、韓国、北朝鮮はこんなにイライラガツガツと日本を攻撃するような態度なのだろうかと知りたくなり、とうとう自習開始。

 

 

去年は、50歳という節目に至る年だったし、どうせなら近現代史だけでなく、全体的な穴埋めをしたいなと思い、古事記から現代史まで、様々な書籍をたくさん、たくさん、読みました。

 

日本は、いろんな角度から研究・分析された内容の書籍が出ておりますから、浅い疑問から深い疑問へと、

ちゃんと答えてくれる内容の本が見つかります。ありがたいことです。


自分なりに、

一段落したと思えるところまで自習したら、自虐史観から抜け出て、心がすっきりしております。自虐史観は、事実として知ることは必要ですが、そこで止まる必要は無いと「未来志向」の考え方をしていこうと決意できました。

 

 

私はインテリアデザインの仕事をしてきましたが、歴史の勉強は、美術やデザインの勉強よりも先にするべきだったなと「後悔」しました。国語と歴史は「心のために大切な科目」だったんだなと、認識を改めました。多分、どの仕事、生き方にも共通することで、子どものうちから、若いうちから、自分のルーツや国の成り立ちを知ることは、それが私達日本人の感性の元に存在するものだから、本当に大切なことだなと感じました。



日本人らしさ、この中身不明の曖昧なことば。

でも、私には「分かる」感覚があります。

日本人なら「我々日本人」と「外国人」とでは、違いがあるのだと分かっているはずです。良し悪しではなくて、違いの存在。包括的表現をしにくいのだけれど、日本人の精神性や行動原理など、歴史を知ることで分かる部分が多かったです。

 


もうひとつ、気がついたこと。

学校で勉強する流れの歴史では「自国の歴史がよく分からない」構成になっていると思います。

 

 

この事に思いが至った時に、何故そうなっているのだろうかと疑問がわき、そちらも自習対象となって、裾野がどんどん広がっているところです(死ぬまで勉強中